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○「光の変容に沿って――工藤 礼二郎 展との出逢いに」    詩人 八覚 正大

(2021年 個展テキスト 宇フォーラム美術館HPより)

    

 私は、ひとりこの美術館の中で、作品の置かれた空間に息をしている。月曜日の午後、静かだ。そして自由だ、時の経つことも、誰かの喋り声、姿、そして気遣いからも……。

そうなのだ、非日常に近い美術館の中でも、我々は関係性の可視不可視の絆によって、実は微細に影響を受け、また与え、意識無意識に拘わらず、置かれた一つの状況の中で動いている……二回見せて頂いた時は、まだその意識から抜けられていなかった。

でも、今は違う、この空間を占有し、占有という意識からも解放され、そして空間の明度を自在に変えて、歩き回り、座り……一つの個展を鑑賞している、恐らくこんな贅沢はあり得ないだろうと思えるほど……と共に、この限りなく淡い色彩の変容を、どうしてもそうやって観たかったのだ。

二回目までは、館内は明るい照明の中だった。鑑賞者に安全に、そして平等に見てもらうためだ。でも、それだけでは何分の一も、これらの画を〈観た〉とは言えない気がし、その段階で言葉を紡ぐことは〈あり得なかった〉のだ。

完全に照明を落としたところから始めてみた。幾つかの作品は、それでも「見え」る。それは宇フォーラム中二階のラウンジの窓から来る光によるのだ。しかしその光が画面を切るような筋(境目)を作ってしまう……。少し明度を上げては、歩き回り、また少し上げては歩いた(十段階くらい)。するとその筋が消え、作品が立ち上がりだしてきた時があった。

第一室奥の作品は、一点暗の光、―夜の〈道しるべ〉のような光だ。しかし、それだけではない、暗闇にも空気が現れて来る……これだろう、本当の暗闇から、翌日の太陽の光が現れてくるまでのプロセス……。

生物としてこの地上に生きる我々は、まさに日々光の明暗の中に生きている……しかし、照明を生み出し、仕事や勉強、また娯楽を中心とした「生活」の中で、光をコントロールし生き続けている、それゆえ光はコトロールされるものとして扱われることが「当然」に思われてきたのだ。

道路の照明も、団地のそれも、危険を排除するために明るくさえあれば良いと。そして、アトラクション的にはイルミネーションにしてと……それは根底にある太陽の運行とともに心身を開かせまた閉じていく生命の在り方から、だいぶ「乖離」してしまってきている気がする。

今回己が拘ったのは、この作品群に出逢って、もしかしたら光というものの原初的関りを見直せるかもしれない、その直感だった気がする。そして、それは至福の三時間の中で、ある程度こなせたと思える。

作者は留学の経験を持ち、フランドル派の影響も受けたと語っていた。

また、二階入り口の壁に茶室の「虹窓」に出逢った時の思いが書かれてもいた。画のタイトルは、それぞれに光や、月や、光の柱や、残留磁気(残光?)といった名辞が与えられている(無題のものもある)。

ただ、それらは鑑賞者へのための気遣い(分類)に過ぎないように思えた(作品と対峙するものが全てというような)。

今回第二室の奥には、白い柱が見え、それが微かに十字架に見えたりする作品があった。

トゥリブティックなものは入って右側の壁に在り、真ん中の白を基調にした大作と、その両側に黒を基調としたものがあった。

特に大作は、照明を変容させるにつれて、微かな桃色や緑といった色を醸しださせた。現れてきた色の波長(波動)にふっと気づく、その瞬間こそ認知機能は目覚めるのだが、その後見つめていると少しずつ衰退していく……で、また明度を変えると、変化した所が見えてくる、我々の認識もまた、変化には敏感に反応しつつ、慣れると印象を薄くしていく……そんなことに気づかせられた。

知的理解は、これから如何様にも可能だろう。対話参加型芸術鑑賞を標榜する小生は、まず初回に作者と出逢え、お話もお聞きできた。その真摯な姿勢と、宗教性に繋がるものを秘めつつ踏みとどまっているアートのスタンス。若いころ飲んで一晩明かした朝の光の中で目覚めた体験? も比喩的に語って頂いた。

ただ今回は、言語的説明よりはるかに、作品そのものに、さらに光を変容させる中で対峙できた数時間こそが、作者のずっと追い求めて来てこれからも歩まれるだろう〈道程〉に微かに寄り添えた気がするのだ

こちらの能動性をかくも喚起させた個展は初めてといってもよく、光というものについての新たな示唆を与えられたように思える。とともに、宇フォーラムの広い室内空間にも、新たな気づきをさせてもらった。作品と場との関係というものについて。

ラセン

REIJIRO KUDO       工藤 礼二郎

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